【10TH READING】ブランデュー弘前FC設立秘話をあの人に聞いてみた!

こんにちはっふぇ!ブラッフェだっふぇ!
皆様の応援のおかげで、もうすぐブランデュー弘前FCはクラブ創設10周年を迎えるっふぇ。
という事で、サポーターの皆様に改めてブランデュー設立時の事や、その想いを知ってもらいたいはんで、あの人へのインタビューを敢行したっふぇ!

こんにちは。

 

NPO法人弘前Jスポーツプロジェクトの理事長、ブランデュー弘前FCの設立者である黒部 能史(くろべ よしふみ)さんだっふぇ!
早速ですが、ブランデュー弘前FC設立の経緯について伺いたいんだっふぇ!

 

そんな堅くしゃべらなくても良いんでしょ?

 

もちろん!ざっくばらんにお願いしまっふぇ!

 

きっかけ…。どこから話をすれば良いのか…。仙台の大学に通っていた時に、ブランメル仙台というチームが当時あって(現 ベガルタ仙台)。「Jリーグを目指す」って宣言した時が、ちょうど大学生だったんですよ。街の中で少しづつ「Jリーグのチームを創っていくよ」っていう雰囲気が醸成されていって。TVのCMで「ブランメルを応援しよう」とか、街中にフラッグが飾られるようになったりとか。リトバルスキーやオルデネビッツがプレーしてたりとか。街の中で「Jリーグできるんじゃない!?」という雰囲気に少しずつなっていって。そういうのを見て、面白いなって思ったし。
後は当時、今のユアスタ(ユアテックスタジアム仙台)でコンサドーレ札幌と浦和レッズの試合を観てるんですよ。揃いのユニフォームを着たおじいちゃんと孫が手をつないでたりとか。大人たちがお酒を飲み交わしながら、「あーでもない、こーでもない」とかしてたりとか。そういうのを見て、「青森県ってこういうのないよな。こういうのがあったら楽しいだろうな。」と思ったのが1番最初のきっかけかな。

 

その後、大学を卒業して弘前に戻って来たっふぇよね?

 

23歳の時だよね。その時はアステール青森っていうチームがあったんだけど、消滅してしまって。「この街で創れるんだべかな?」って思いながら、「でも、いつか創りたいな」って思ってた。

 

その後、「リベロ津軽」の運営に携わるっふぇよね?

 

24歳か25歳の時からかな。(自分が子どもの時に)サッカーやりたかったけど、やれる環境がなくて。小学校の時はサッカー部がなかったし、今みたいにクラブチームがあるわけでもないし。中学校のサッカー部はそこそこ強くて。でも、リフティングもできないのに、中学校からいきなりやれないじゃない。で、諦めて。でも体育の授業とかではサッカーが好きで。だから、いつか何かしらの形で携わりたいなと思って。社会人になってから、遊びで良いからサッカーしたいなと思ってて。それで、リベロ津軽に「蹴球会」っていうチームがあったんですよ。トップチームではなくて。

 

いわゆる「エンジョイ志向」のチーム?

 

そうそう。そこに入って楽しみながらサッカーやってたんだよね。その中で、「中学校の年代ってサッカー(をする環境が)大変なんだよ」っていう話を聞いて。なんでかっていうと、学校の先生が指導者だから、転勤することがあるじゃない?そうすると、今までの先生がサッカー経験者でしっかり教えていたのに、新しくサッカー部の顧問になった先生がサッカー経験があるとは限らないんだよね。そうなると急に弱くなってしまうとか。「サッカーやりたいけど不安定…っていう状況になっているんだ。」と。それを聞いて、「なるほどな。」と。そういうことがあるから、クラブチームって大事なんだなって。
それで、理念に共感させてもらって「お手伝いします。」っていうことで。協賛を集めたりとか、会報誌を作ったりとか。それで、色々勉強しなきゃってなったりね。当時、リベロにトップチームがあって、2008年くらいからチームを強化し始めたのかな。そのチームをJリーグのチームにっていう気持ちが自分の中で出てきて。
でも、ちょうどその頃、「Jリーグを目指せ」っていうチームがいっぱい出てきてさ。出てきちゃ潰れてしまっていた訳よ。だからリベロとしては、子ども達のスクールの環境・学ぶ環境を、トップチームが(Jリーグを)目指す事で失敗して、失くしてしまうという事は良くないと。

 

だから、NPO法人弘前Jスポーツプロジェクトを立ち上げて、ブランデュー弘前FCとして活動していくことにしたっふぇね。

 

あらゆる人が望む環境でやれることが大事だと思うからさ。そのためには、子ども達のカテゴリーだけじゃなくて。トップチームがあって、シャワー効果で色々なものが地域に波及していくっていうのが(必要だという想いが)、自分の中であったから。例えば、コーチが所属していたら、空いた時間を使って地域の子ども達に教えることができるし…。そういう風にしていくと、みんなハッピーになるわけじゃない?自分の考え方で「業界総資産の拡大」っていうのがベースであって。「スポーツ」っていう業界の総資産が大きくなれば、みんなの価値が上がるわけで。スポーツの価値が上がれば上がるほど、それが仕事になっていくから。

 

なるほど。ブランデューの立ち上げ自体は2012年だふぇど、その準備をスタートしたのは?

 

2011年。

 

すごいスピード感!

 

実際に組織を作ってっていうのは2011年の11月とかそれくらいじゃなかったっけな?

 

じゃあ、本当に何か月かで…。準備をし始めてから設立までのタイミングの中で、周囲の方の反応はどんな感じだったふぇか?

 

「絶対無理でしょ」しか言われないですよ(笑)

 

ふぇー!?

 

「絶対無理!」しか言われなかったよ!「青森県じゃ無理でしょ。」って言われてた。「弘前じゃ無理でしょ」じゃなくて。

 

そういう声ばかりだったっふぇか?

 

多かった。けど、その中でも共感してくれた人もいたし、「応援してるよ」って言ってくれた人もいるし、その人たちが初年度から応援してくれてる人たちなんだけど。

 

それこそ、弘前Jスポーツプロジェクトの理事の方たちは、「やっていこうよ!」っていう感じで集まった方たちっふぇよね?

 

うん。スポーツをするためだけに創ったわけじゃないから。そもそも「まちを元気にしよう!」っていうのが最大のゴールだからさ。

 

(サッカーは)そのための手段だっふぇよね。Jリーグ昇格自体が目的ではなくて。

 

最初から分かってたわけじゃないけどね。大学生の時なんて「サッカーがあれば良いな」しか思ってなかった。少しづつ積み重ねているうちに、そうじゃないなって思うようになって。

 

ネガティブな声が多かった中で、黒部さんが思っていたことを教えてほしいっふぇ。

 

なんだろうな。自分の力不足っていうか。伝える力がないんだな、イメージさせられないんだなって思った。だから、松本に一緒に行きましょうとかベガルタを観に行きましょうとかの企画に繋がってるんだよね。人は観ないとイメージできないし、イメージできないと実現できないじゃない?やっぱり実物を見てもらわないといけないんだなと思った。

 

弘前だと観る機会は少ないっふぇよね。東北楽天イーグルスの1軍戦が初めて弘前に来たのも2017年だっふぇもんね。

 

イメージできないと実現できないんですよ。イメージできないと方法も見つけられないからね。

 

逆に当初から応援していただいている方たちへの想いは?

 

「ありがたいな。」これに尽きますね。さっきの話の真逆で、イメージできないもの、形になっていないものを、心意気だけで応援してくれるってことだから。嬉しかったね。

 

そもそも、「青森では無理」という声がある中で、なぜ弘前で始めたっふぇか?

 

まず、「青森じゃ無理」って言うのが自分の中で納得できなくて。設立会見の時に「目指すチームはどこですか?」っていう質問があって、それに「サガン鳥栖と松本山雅だ」って答えてるんですよ。鳥栖市の人口どれくらいか知ってる?7万人くらいの市なんですよ。人口ベースで無理って言うなら、なんでそこでできたの?って話になる。みんなスタートは一緒。もともとの街クラブが、「このチームは素晴らしい」ってなって、みんなでお金を出し合って、大きくなっているんですよ。だから、もっと市民の方々から共感してもらえるようなチームになれば弘前でもできるって思った。企業から協賛のお金はチームに対する期待値だし、サポーターズクラブは現在地。自分の中で、市民に共感してもらえるか、もらえてないか。企業は「頑張ってるから出すよ」って言ってくれるかもしれないけど、市民は違うじゃない。だからそこに共感してもらわないといけないし、そこにたどり着いてほしい。(青森県なら)「青森市でやった方が人口が多いから可能性はある」って言われたことがある。でも、そもそも「自分が愛する故郷の元気」がゴールだから。Jリーグのチームを作りたいだけじゃないから。

 

設立当初に特に苦労したことはありまっふぇか?

 

苦労したこと?なんだろうね。人がいなかったよね。

 

人?

 

スタッフもいないし、選手もいないし。1番最初は監督が決まらなかったっていうのが。

 

初年度はシーズンが始まってからの合流だったって聞いたことがあるっふぇ!

 

7月だね。4月1日になると、いつも思い出すんだけど、水沢サッカークラブとトレーニングマッチをしたの。で、帰ってきてから青森県武道館の会議室でミーティングをやって。「今日どうだった?」って話をして。濱中大が「良いっすか?」って。「監督が決まんねんだば、わ辞める。他のチーム行く。」っていう話になって。当然そうなるよね。でも、自分も前の年の10月くらいから、ずーっといろんな人に会ってたんだけど、なかなか決まらずね。5月かな、決まったのは。監督が決まらなかったのが1番きつかったかな。

 

これから設立するというクラブに来てくれる方がなかなか少ないでしょうし、良い条件提示ができる訳でもないっふぇよね?

 

そこも感覚の乖離っていうかさ。僕らは青森にいるから、「この条件でお願いします!」って頑張ったつもりでも、都会の方から見ると「生活できないじゃん」ってなるんですよ。だから、しっかりプロファイル作って、30歳代前半から半ばで、元Jリーガーで、自分でプレーを見せることができて、明るいキャラクターで、って感じで自分の中で監督像を作って、探したんだよね。

 

やっぱり元Jリーガーっていうのはポイントだったっふぇか?

 

ポイントだったね。なんでかって言うと、地域の子ども達に「プロの技術を見たことがない」って子が多かったんだよね。2007年に弘前に前園真聖さんを呼んだ時にね、「Jリーグ観に行ったことある人!」って手を挙げてもらったの、子ども達に。そしたら誰もいない!じゃあ、そういうのを見せなきゃと思ったから、そこにはこだわった。

 

そういう条件にマッチした人が…。

 

ようやくね。現れて。色々な人の繋がりの中で、「こういう人がいるけど」って吉本岳史さんを紹介されて。「じゃあ、行きます!」って東京にすぐ行ったんだ。「会えないかもしれない。」って言われたけど、「大丈夫、行く!」って。結局、会えなかったんだけど。でも後日すぐ、1回弘前に行きたいと(連絡をもらって)。それで、来てくれたんだよね。東奥義塾高校で練習している時に見に来てくれて、条件面の話をしたり、環境の話とか、こういう風にしていきたいとか、そういう話をしながら。吉本さんは「自分も仕事をしていて、すぐには辞められない」と。「7月でないと合流できないけど、それで良かったら。」って。「お願いします。」という事で、そこで決まった。本当にギリギリだったと思う。

 


2012年のブランデュー弘前FC。後列左から3人目が吉本 岳史 選手兼監督。

「ブランデューを設立して良かったな」って思うことはあるっふぇか?

 

まだ道半ばだからな。こういうことが良かった、ああいうことが良かったとは言えないけれど。自分の中で1つ嬉しかったことっていうのがあってさ。「食と産業まつり」ってあるでしょ?その中で「僕の夢・私の夢」みたいなコーナーがあってね。その中に「僕の夢は将来ブランデュー弘前FCに入って活躍することです。」っていうのがあって。それが自分の中で凄い嬉しくて。「良かったな」って思ったんだよ。

 

子ども達の目標になっていく…という1つの形になれたという事っふぇよね。

 

そう。夢を背負ったな、と。そういう意味では責任も重大だなと思った。子ども達に常に見られているという存在であったり、子ども達の目標になったりとか。でも、それが1番良かったと思ったことかな。街が変わったとかは…。まだ全然変わってないしさ。…いや、変わったのかもしれない。例えばスポーツ界で言えば、「津軽スポーツ応援団」とかね。そういうのができてきたりとか、一体感はできてきた。自分たちの存在をきっかけに、「弘前アレッズ」ができたりとか、「弘前サクラオーバルズ」ができたりとか。でも、自分たちが目指してる目標には、まだ道半ばだからさ。

 

先ほどの作文の話に近いっふぇけど、松山瑠偉選手がブランデュー弘前FCに入団する時のコメントで「小学生の時にブランデューを観て、その時から入りたいと思っていました。」と。別の取材で聞いたら、2014年の猿田興業との首位決戦を観に来てくれたみたいっふぇ。

 

あー!あの1部に上がれるかどうかの!佐藤拓がゴール決めたやつだ!

 

それっふぇ!それが楽しかったみたいで、「いつかブランデューで」と思ってくれたらしいっふぇ。やっぱり、それは黒部さんたちが積み上げてきたことの成果が出てきているのかなと思ったっふぇ。

 

積み上げていくからこそ、歴史って価値あるものでさ。立ち止まっちゃいけないなと思うし。色々な人の想いを背負っているという事を絶対に忘れちゃいけないよね。

 

これからのブランデュー弘前FCをこうしていきたいという想いを教えてほしいっふぇ。

 

やっぱり途中の話に戻るけど、サポーターの数が現在地だと思う。市民に支えていただけるクラブになりたいと思うし。自分がよく使う言葉なんだけど、市民に愛されるクラブじゃなくて、市民・ホームタウンを愛するクラブになりたい。これで大丈夫かな?とか、うまくいってるかな?とか。スポーツの環境でも、自分達でできることってないかな?とか。そういうことを常に気にしながら活動できるようなクラブになっていきたい。愛されるのは後からだからさ。まずは片思いでも良いから、弘前市を常に愛するクラブでいたいなと。そういう風に思う。

 

そういう想いで立ち上げられたクラブでふぇからね。

 

市民の笑顔がクラブの元気ですよ。

 

本当、そう思いまっふぇ!!
最後に、これまでブランデューを支えてきてくれている人への想いを教えてください。

 

本当に、仲間に助けられたなというのが1番だなと。自分が35歳の時に創っているから、それまでの35年間でお付き合いのあった人たちに支えてもらったし。その後に会う人、会う人にも支えてもらったから。自分の想いだったりとか考え方に共感してくれてるわけだからさ。本当にありがたいなっていう気持ちです。

 

今日はありがとうございましたっふぇ!

 


黒部 能史
1976年6月12日生まれ。青森県弘前市出身。
2012年5月13日にNPO法人弘前Jスポーツプロジェクトを設立し、理事長に就任。